ゼミで行ったことを記していきます。別称、基礎論業務日誌。
Worrallの構造主義を提唱した論文、最後までカバーしました。
Boydの実在論を部分的に擁護する一方で、Laudanの悲観的帰納法で指摘される実在論批判も踏まえ、Worrall自身の結論は、(もちろん)構造実在論structural realismへと集約されていきます。
論文のサブタイトルで、the best of both worlds? とある通り、Boydの実在論とLaudanの実在論批判の両方の、いわば「いいとこ取り」ができる考え方、として、Worrallは構造実在論を位置づけています。 both worldsと表現されているのは、具体的には、
Laudanの指摘する不連続な理論変化(e.g. 光を伝搬する媒体としてのエーテル→電磁場)は、存在論的なレベルでの議論であるが、数学的な構造のレベルに限定して見てみると、新理論は旧理論を確実に受け継いでいる、というのがWorrallの見解。それによって、Laudanの批判との整合性を保ちつつ科学理論の累積的な変遷も説明できる、と主張します。
理論の数学的構造という点に着目して新たな実在論のあり方を提唱したWorrallの構造実在論は、実在論の在り方として斬新なアイデアとして受け止められ、その後の議論にも大きな影響を与えました。
ただし、Worrall自身の説明だけでは、正直かなりの曖昧さが残されたままになってしまっている印象もあります。例えば、ある科学理論が「数学的構造を捉えている」と主張するためには、どんな条件をクリアすることが必要なのか、あるいは存在論的なレベルにコミットしないのならば、道具主義やプラグマティズムとどこが異なるのか。A. FineのNOAの考え方を引用しつつも、なぜ、Fineとは異なり、あえて実在論を擁護する方向へと踏み込む必要性があったのか。
現代の新しい議論を見ていく上でも、こういった疑問にどう答えることが出来るのか、考えていくことが重要となってきそうです。(D2井上)
* *
この後は、構造実在論の流れも受けた議論として、da Costaらの論文を読んでいきます。
それから、実在論・非実在論の議論とは別に、物理学の哲学の分野(特に時空論や量子論関連)についても、新たに輪読を始める予定です。
本日、2009年度の修士論文発表会が行われました。
科学基礎論研究室からも、修士2年の2名が、それぞれの修士論文に関するプレゼンテーションを行いました。
ふたりとも、お疲れ様!!
奇蹟論法の基にある直感(実在論的)と、科学における理論変化という歴史的事実(反実在論的)の両方を説明できる立場を求めて実在論者ウォラルが話を進めます。
今回のキーワードは科学の「成熟性」と理論の「予言的成功」あたりでしょうか。
ラウダンによる実在論批判から始まって、結果的に、“実在論者は科学の「成熟性」の客観的な規準を設ける必要がある” ということになりました。
ウォラルはアドホックな「予言的成功」を排除したある種強い意味での「予言的成功」を定義し、この強い意味での「予言的成功」を収めた理論を持つことを、科学の「成熟性」の規準としました。
しかしまだそれでもフレネルの理論が仮定した弾性的エーテルは上記の二つの観点から整合的にみることができないということで、この弾性的エーテルについて論じ始めます。
輪読を振り返って
STRUCTURAL REALISM: THE BEST OF BOTH WORLDS?
JOHN WORRALL(p.147-150)
科学発展の描像を2つのレベルに分け、理論交代に関してrealismの立場を擁護する
理論的なレベルでは理論が根本的に変化するといえるが、経験的なレベルでは累積的。ただし、このような見方では、問題が生じる→理論がある点では(近似的に)真。だが、同時にある点では(存在論的には)偽。
このような描像とrealismを両立させるためには2つの可能性のみ
理論の観察を超えた部分は現象の背後に隠された実在を描写しようと試みたもので、現在ある理論は真理のbest shot、つまり、理論科学は真かどうか(真理により近づいているかどうか)はわからず、真理を求めて終わりのない探究がつづく活動である。
科学的実在論をめぐる論争のひとつである「奇跡論法」(「最善の説明への推論(IBE: Inference to the Best Explanation)」の一種)について、R.Boydに代表される素朴実在論をさらにもう一歩踏み込んだ認識的構造実在論(epistemic structural realism)の立場によるJ.Worrallの見解を、「近似的真理(approximately truth)」の在り方を通じて見てきました。
中でも「熟達した(mature)」科学が「近似的真理」へと向かっていることに科学的実在論者が言及するには、経験上あるいは現象上の継続的な成功にのみ捉われるのではなく、科学革命のように急進的な(radical)理論変化後において尚も後継の理論の中に「修正を施された形式(modified form)」として「本質的で累進的に(essentially cumulative)」生き永らえていることにも注視する必要がある、とWorrall強調しました。
しかしながら、「近似性(approximation)」と論理上の「推移性(transitivity)」を混同して「真理(truth)」にコミットしてしまいがちな科学的実在論の難点も露呈されました。この一因として「近似性(approximation)」という概念の非常な弾力性をWorrallは指摘しています。
よって科学的実在論を一層捕捉していくに当たって、BoydやWorrallの主張の要点を理解することは勿論、存在的構造実在論者(ontic structural realist)S.Psillosによる「近似的真理」の見解についても確保する必要性を感じました。Psillosによると、当該理論とその理論の領域との何がしかの関連性、すなわち近似的に適合する何がしかの関連性が「近似的真理」なのです。とりわけ、当該理論の周辺にある有効な諸理論に係わる論理上の真偽から独立した関係性に着目するようPsillosは言明しています。このことについてPsillosはA.Musgraveによる演繹主義(deductivism)やC.Howsonの主観的ベイズ主義(subjective Bayesianism)と係わらせながら、科学史上の事例―DNA分子構造の発見や、水星近日点の変則性の説明―を考察しました。
今回の基礎論ゼミを通じ、直観的にもっともらしい科学的実在論―真理(truth)への何らかのコミットを多角的かつ多面的に試み続ける宿命に在る立場―を支持し続けることの困難さを改めて認識しつつ、今後とも科学的実在論寄りの見解で研究してく思いが強まりました。同時に、科学的実在論一点張りではなく非実在論(特に構成的経験論(strucrural empiricism)や道具主義(instrumentalism)のような実用論(pragmatism)に由来する立場)との共生のあり方について、「最善の説明への推論」を鍵として科学基礎論に取り組んでいく所存です。 (杉野)
(11/30 #3)
9月の合宿以来,集中的に読んできたvan Fraassenの論文も,今日で一区切り。この日のゼミで,van Fraassen(2006)"Representation: the Problem for Structuralism"を最後まで読み終わりました。
現象と理論(数学的/抽象的モデル)のマッチングについての議論,論文の終盤で,やはり大きな展開とともに,見事に構成的経験主義の主張へともっていくところはさすがですね。
この論文では,現象を表象するデータモデルが,妥当relevantなものであるのかどうか。そこに必ず妥当性の判断を下している誰かが居るはず,という点を突きます。そして,その妥当性云々に関しては,フォーマルな論理のようにデータモデル自体を吟味すれば妥当かどうか決定できるというわけではない。
つまり,現象と構造の二者関係ではなく,「データモデル」と「その データモデルを妥当な物と判断している人」,そして「データモデルによって表象しようとしている現象」,の三者の関係として捉えることが必要,ということに。以前の論文でも出てきた,理論等を「信じる(believe)」という言葉の使い方も,その「信じている人」の存在を意識させる点で大いに今回の話につながりますね。
見事な切り返しに,感心させられると共に,van Fraassenの主張に対して突っ込んでみたくなる点も,少しずつ出てきました。
例えば,上述の三者の関係で,とくに重要な指摘であった「人」は,単数なのか複数なのか。論文中では,I/meとwe/usが,それほど区別無く入り混じって使われているようですが,でも必ずしも同じ意味にはならないはず。
それから,論文の最後で一言だけ出てきた,structural realism/structuralismを意識していると思われる記述も,気になるところ。タイトルを改めて見てみると,このstructuralismに対する反論,あるいは経験主義的立場からの問題提起ももっと書いてあってしかるべきなのに・・・。
いずれにしても,いつものvan Fraassenの見事な切り替えしや,それでいて読み手を反論したい気持ちにさせるような書きっぷりなど,彼が「商売上手」な哲学屋さんなのだなぁ,と再確認した思いです。(イノウエ)
(11/30 #2)
①実在論者によるoffhand responseをフラーセンが批判します。
批判の主なポイントは、
②「数学的対象が物理的実体を表象するためには、物理的実体を記述するための“経験論的に衛生的な言語”が必要」というライヘンバッハの言葉を引用し、そのような言語(記述)を求めることは不可能であると批判します。
(11/30 #1)
少し順番が前後してしまいますが,10月からはvan Fraassen(2006) "Representation: the Problem forStructuralism"を読み始めました。その,まず冒頭部分について。
semantic viewの主張:理論と現象が同じ構造を共有する。
どうすれば抽象的存在(数学)で抽象的でない存在(自然)を表現することができるのか?
数学的対象と物理的対象の間のcoodinationが問題。
→物理的対象は数学な定義の範囲をもっていない
コメント・カードに対する回答 つづき
■「実在論と、フラーセンの経験論の関係について、実在論は経験論を含意するが逆は成り立たないように思われます。どのような条件を加えると成り立つのだろう
か。」
▽回答
長らくお待たせしました。回答させていただきます。ですが、その前に実在論(realism)と構成的経験論(constructive empiricism)の概略について念のため触れさせてください。
実在論と一口にいっても立場が多様ですが、科学理論で表象(represent)される実体が現実世界(the real world)においてもそのようである、という捉え方をする点で見解が共通していると思います。このため、実在論は何らかのかたちで「真理(truth)」について言及しようと努める立場にある、ということになります。
一方、非実在論(non-realism)の主要な一派であるファン・フラーセンの構成的経験論は、観察可能な(observable)実体と当該理論モデルとの対応付け(coordination)によって「経験的に十全(empirically adequate)」なことが「現象を救うこと(saving the phenomena)」の大前提にある、という捉え方をします。また観察不可能(unobservable)な実体、特に肉眼で捕捉できないもの(例えば電子やクォーク、微生物、ウイルスなど)に対する経験的十全性は勿論のこと、真理についても一切コミットメントをしません。要するに、構成的経験論は観察可能なものに還元して客観的に現実世界を表象することに重きを置く立場である、と言えましょう。
したがって、観察可能なものに対する実在論者の「真理」と構成的経験論者の「経験的十全性」については通常論争になりません。
さて、前置きはここまでにして、以下にご質問に対する回答を2つの条件にまとめてみました。
まず1点目の条件は、観察不可能なものをめぐる「真理」に対するコミットメントを構成的経験論者にも認めることで実在論者にぐっと近づく、と考えられます。
次いで2点目の条件として、観察不可能な対象に関して客観的に「受容する(accept)」のではなく主観的に「信じる(believe)」態度に転じることで実在論寄りの立場になる、と考えることもできます。
ですが、、、これらの条件を認めてしまうと、構成的経験論の真髄や、「実在論vs. 非実在論」論争自体に係わる充実度、ひいてはその論争から得られてきた(そして得られていくであろう)多種多様な知見が損なわれることになってしまうでしょう。少なくともわたしはそう考えます。
つまるところ、実在論と非実在論者のどちら側の立場を支持したいひとにとっても、「実在論vs. 非実在論」での様々な○○論や○○主義と同様、構成的経験論の論点を知ることは科学基礎論や科学哲学を一層楽しむ上で非常に有益なのです。(杉野)
今月初め、当研究室のメンバー3名が、慶應三田で行われた科学基礎論秋の研究セミナーにて、ワークショップ発表を行ってきました。
テーマは「科学的実在論の今」。
哲学や科学の様々な分野を専門とする方たちに参加いただきました。
学生のみによる発表ということもあり、内容的には至らない点も多くあったかと思いますが、期待以上に多くのコメント(多くの質問や、力強い応援メッセージも!)を頂くことができ、私たちにとって非常に収穫の多いものとなりました。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。
当日のワークショップでは、挙手による質疑応答のほか、コメント・カードへ記入する形式でも会場の方々からさまざまな質問等を頂きました。限られたワークショップ時間内で取り上げることのできなかったコメントについては、会場でアナウンスした通り、できる限り私たちなりの回答をし、こちらのサイトにて掲載していこうと考えています。<オーガナイザー:D2井上>
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以下、コメント・カードの質問と、とその質問に対する回答を。
■『Fictionの例としての「人工粘性」は、科学では昔から良くある事柄ではないのか?(例えば、天文学のバルカンetc.)』
▽回答
そうですね、「仮想の存在」のような意味で考えれば、科学の中には様々なFictionが存在するといえるかも知れません。 が、やはりそれらはWinsbergの言うFictionとは異なるものと見るべきでしょう。ここでは、二つの観点から「惑星バルカン説」と「人工粘性」の違いを考えてみます。
<Fictionか否か>
水星の近日点移動を説明する存在として想定されたの「惑星バルカン」は、少なくともEinsteinの一般相対論以前は、実在するかどうかはまだ分からないもの、という位置づけでした。一方、衝撃波の計算実験で取り入れられる「人工粘性」は、実際には無いものだという認識がありながらも、シミュレーションのテクニックとして用いられています。 その意味でこれはFictionであり、バルカンとは異なります。
なぜあえてこのような区別が必要かというと、やはりFictionを用いた計算機シミュレーションが、科学的手法として認められるべきかどうか、という妥当性の議論で重要になってくるからなのでしょう。
<予言等で用いることの妥当性>
惑星バルカンは、水星の近日点移動を元に、その存在が予言(想定)されたものです。ただ、そのバルカンの存在を元にした新たな予言(例えば金星の軌道のズレ)は、妥当な科学的予測として認められることは無かったでしょう。あるいは、そういった他の予言において実績が無かったといってもいいかもしれません。つまり、別のドメインでの適応を認められるほど、道具的な成功を収めてはいなかったわけです。
このあたりが、科学理論でのいわゆる「仮説」と、Winsbergの言う(道具として有用性が認められた)Fictionとの区別において、真っ先に押さえておくべきポイントなのだと思います。 (井上)
つづく
合宿2日目
「器具の使用が新たな現象を作り出す」というフラーセンの見解に対して、ポール・テラーは、顕微鏡は実在物の「像」を作るのであって「現象」をつくるのではないと反論しました。このテラーの反論に答えるためにフラーセンは、公的幻覚という考え方を持ち出します。自然はある種の不変性を持った公的幻覚(例.水面に映る木、虹)を作り出し、その公的幻覚は実在物の像であることもあれば(例.水面に映る木)、そうでないこともあります(例.虹)。しかしフラーセンによれば、像が実在物の像なのかそうでないのかという問いは経験を超えた事実についての問いであり、従って顕微鏡が作り出すものを実在物の「像」と呼ぶのも妥当でないということになります。
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いつもと違った環境での勉強のほか、定山渓温泉ならではの色んな魅力(露天風呂、サウナ、滑り台、猫、卓球、バイキング・・・?!)も満喫。言うなれば「おんせん」と「フラーセン」にどっぷりの二日間でした^^
科学基礎論研究室初となる、秋の合宿で、定山渓にやってきました!
初めに読んだのは、以下の論文。
タイトルにもある通り、ファン・フラーセン流の構成的経験論者が観察不可能なモノをどう位置づけるか、という点に関する議論です。理論が観察可能なもののみを語るならば、例えば「電子は観察不可能」だと主張する理論は観察不可能なものについて記述しているのではないか。このような批判に対して重要となってくるのが、理論を「受け入れるaccept」やあるAなるものが実在すると「信じるbelieve」などのスタンスの捉え方。
最後は、あっと驚くというか、拍子抜けするほどあっさり、というか、、ちょっと意外な結論で締めくくっていますが、でもやはり鮮やかな切り返しはさすがファン・フラーセンという感じがします。そしてまた、ややこしい議論のポイントを鋭く見抜いて整理し、ファン・フラーセンの当初の回答に対しても批判をしつつさらに解決法を提示した共著者のミュラーもすごいですね。
今日は、Fraassen (1976). To Save the Phenomenaの一章を見ました。本当に短い章でしたが、実在論と反実在論についてみました。実在論は、科学が世界について文字通り真の物語を提供し、それを信じるという立場。反実在論は、科学は文字通り真の物語なしに提供されるという立場です。この文字通り真という考えが、反実在論を2つに分けるところまでみました。
再び、D2井上です。
前回ゼミに引き続き、Moulines(2002)で構造主義の基本的な理解をすすめ、その上でSuppeのほうの残りをカバー。
とくにSuppeのほうでは、現代のStructuralismについて、ごく少数の論者の名前をあげて表面的になぞる程度でしたが、ともかく現代の科学哲学のいろいろな議論ともかかわりあう、現在進行形の話題であるということもあるのでしょう。
Moulinesが書いていた言葉で印象的だったのは、「構造主義ってなんだか複雑すぎると言う人もいるけれど、それは、描こうとしている理論科学というやつ自体が複雑な営みのため」だということ。
うん、確かにそうなんだろう、という気がします。
次回以降の輪読では、これまで読んできた論文とはまた異なる立場で書かれたFraassenのTo Save the Phenomenaを読む予定。
文献メモ
博士後期2年の井上です。
現在の、このSeminarMemo(ゼミ報告メモ)、毎回輪読など担当者が、各人思い思いの形でアップしていくことにしています。ということで、今回は、記名にて基礎論ゼミの簡単な振り返りをしてみます。
内容は、これまでの輪読の続き、Theories, Scientificの、最後の2つの章です。
7. Models and theories
この辺りから、筆者であるSuppe自身の主張が、時にやや強引に展開されているように感じますね・・・。 configurated hyperspaceという、Suppeのquasi-realism的な立場にもつながるモデルの捕らえ方が印象的。ただ、一方では、モデルについて大きく異なる立場を取るMorrison&Morganや、あるいはさらにCartwrightなどの考え方も、より掘り下げて考えて見たくなってきました。
8.Dynamics of theories
Sneedの構造主義の考え方を中心に、理論変遷をダイナミックなものとして捉えようとするアプローチの議論。
うーん、ここはSuppeさん、テクニカルな説明をはしょりすぎじゃないかと・・・。知識がないままSuppeの結論を読んでも、何の話をしているのか、どうも理解・納得できず、苦戦 …ということで、Moulines(2002)でのstructuralismの説明で補うことに。 この人、難しいことをずいぶん上手いこと説明してくれていますね。ちょっとびっくり。
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Suppeによる、この論文(encyclopediaの文)は、あと一息でおしまい。不思議なことに、筆者のSuppe自身の意味論的解釈やquasi-realist的な主張以上に、Suppeとは異なる主張を展開する論者(とくにFraassenやCartwright)の議論に、がぜん興味が沸いてきました。
Routledge Encyclopedia of Philosophyの「Theories, Scientific」の第6章について。前半部分では、van Fraassen (1967)を参考にしつつ、Suppe(反事実条件的実在論)流の「理論の意味論的解釈」に関する見解の概要をみました。また後半部分では、構成的経験論者van Fraassenの論点を代表するキーワード「経験的な十全性(経験的に十全)」と、実在論者が主張するところの「実在」との迎合理論の存在可能性をめぐるSuppe自身の見解について、van Fraassenとの相対的位置付けから議論しました。現実世界と可能世界のそれぞれでの状態遷移に対する存在論上のコミットメントのあり方について考えさせられました。
北大の夏の風物詩である大学構内でのジンギスカンパーティー(通称ジンパ)を行いました。天候にも恵まれ、北海道の心地よい気候の元で食べるジンギスカンは、お店では味わえない格別なものでした。
Routledge Encyclopedia of Philosophyの「Theories, Scientific」の第4章途中から第5章の終わりまで。論理実証主義に対するいくつかの批判を見ました。第4章では、観察言語と理論言語の区別に対する批判と対応規則(correspondenc rule)に対する批判を中心に、Suppe、Hanson、Kuhn、Suppes等の主張をなぞりました。第5章では、Suppes、Suppe、van FraassenのSemantic Conceptionの考えについて見ました。van Fraaassenのが、反実在論を意識したものになっていました。
Routledge Encyclopedia of Philosophyの「Theories, Scientific」の第3章と第4章の途中まで。理論語と観察語を分けることができるか、といった議論など、論理実証主義的な路線を進めていくと実在論に傾きがちであるといった、道具主義と実在論の対立について見ました。