東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震に関連して、「想定外」という言葉が多用され、その言葉自体が社会的に様々な問題を引き起こしたことは周知のところである。この「想定外」という言葉のうち、ある地震学者たちが証言する地震学の内部に存在した「想定外」の状況は、科学哲学で議論されてきた概念と平行性が認められるものであった。本論はこのことを手掛かりに、地震学、特に地震の長期評価という政策に関わる地震学に存在していたとされる“この”「想定外」と、「想定外」を回避するという意味で震災後にしばしば政策的に用いられるようになった「想定外の想定」という概念を併せて「想定外問題」として捉え、社会の中の地震学に生まれた「想定外問題」を対象に、応用科学哲学的な分析を行うものである。 本論は、3つの議論で構成される。まず、端緒となる議論として、この「想定外」という事象が、科学哲学における科学的実在論論争の中で提唱された学説(K. スタンフォードの“the Problem of Unconceived Alternatives”;PUA)において主張される現象や要因と平行性をもつことを確認し、「実践的な意味でPUAという哲学説を検討する意義」について論じる。 二つ目の議論では、PUAという主張が、科学哲学の代表的なテーマ「決定不全性問題」の一種であることを踏まえ、関連の議論のうち、特に価値との関係論(価値論)に着目する。そして想定外問題の分析にこの価値論を適用するうえでの課題として、「PUA的な決定不全性と価値の関係」、及び「価値判断主体としての意思決定者」への着目の必要性を明らかにする。 そのうえで三つ目の議論において、これらの観点からの分析を「想定外問題」に適用することで、従来の価値論にはなかった概念的な要素、「意思決定者による価値マネジメント」の存在と役割を明らかにし、価値論、特に政策に関わる科学に関する価値論におけるこの概念の意義を考察する。 最後に、ここまでの議論から実践的な教訓とさらなる検討課題を引き出す。
ADHDは神経発達障害の一種であり、『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』において「不注意」と「多動性-衝動性」という2種類の症状から特徴づけられる精神科疾患である。DSM-5に記載されている以外のADHD症状として「過剰な日中の眠気」と「疲労感」という「エナジェティック(=エネルギー的)な」症状が存在する。既存のADHDの病態モデルはほとんどが脳中心主義的で身体性を欠いたモデルであるが、それらのうちとりわけ現状広く受け入れられているのはTriple Pathwayモデルと、Default Mode Network干渉仮説である。しかしながらこれらのモデルはいずれも弱い説明能力しか持たず、ADHDの症状のうち「不注意」と「多動性-衝動性」の2つの症状についてはある程度説明できるとしても、「過剰な日中の眠気」と「疲労感」というようなエナジェティックな症状を説明できない。既存のADHDの病態モデルのうち、State Regulation DeficitモデルはADHDの非-脳中心的モデルであり、覚醒度の調節不全からADHDの諸症状を「日中の眠気」も含めて説明できる点において優れている。しかしながら、SRDモデルは、「なぜ覚醒度の調節不全がADHDにおいて生じるのか」、そしてまた、なぜADHDでは『疲労感』の症状が生じるのか」という点を説明できないという弱点を持つ。この弱点を克服するために、筆者は本論文の中で新たなADHDのエナジェティックな身体性モデルであるRestlessモデルを紹介する。このモデルはADHD者の身体が”restless”な、「力みの過剰のために休めずエネルギーの浪費が多い、傾向にあり、それゆえに認知処理能力が低下したり、眠気や疲労感の症状が出現したりする、という仕方でADHDを説明する。また、Restlessモデルは、こうしたADHD者のrestlessnessの生物学的基盤として自律神経系の異常や骨格筋の過緊張を措定しており、この意味において非-脳中心主義的で身体的なモデルと言える。もし仮にこのモデルが妥当であるならば、ADHDの疾患理解だけでなく、治療にも大きな変革が生じるであろうと考えられる。
科学哲学ではこれまで、科学で中心的な役割を果たしているモデルと、研究対象であるターゲットについて、主に表象という観点から議論がなされてきた。本論文では科学哲学のモデル研究の中でも最新の主張にあたる、二つの説を取り上げる。一つは Frigg & Nguyen の DEKI 説+フィクション説、もう一つは Knuuttila の人工物説で ある。本論文の目的は、二説の関係と、二説から得られる科学的モデ ルに関する洞察を明らかにすることである。
DEKI 説+フィクション説と人工物説(まとめて「最新の二説」と呼ぶ)は、いずれも従来の議論が抱えていた問題点を乗り越えうる主張であると思われる。本論文の前半ではその点を押さえながら、従来の議論と最新の二説の主張について確認する。後半では、まだ十分に 検討されていない最新の二説の関係について考察する。考察の前半では、二説の統合を試みる Salis の議論を批判した上で、二説が別々の観点を持ちながらもお互いに補完し合う説であることを示す。考察の後半では、Planck が 20 世紀初頭に構築した黒体放射のモデルを取り上げる。このケーススタディを通して、最新の二説それぞれが持つ、異なる二つの視座を行き来することが、モデルの理解において肝要であることを示す。
本論では、カール・ポパーの科学哲学が生物体系学内部の方法論論争において頻繁に援用された事例を概観し、反証主義の個別科学への適用とその限界を示しつつ「験証度の理論」を中心にポパー哲学の再評価を試みる。
ポパーの反証主義は「科学の条件は反証可能であること」という提言のもとに科学と擬似科学の線引き基準を設定した哲学理論である。不偏性と厳密性の高い物理学を対象にして、演繹論理に基づいた科学方法論として考案された。一方でその反証主義に最も影響を受けた科学分野は、進化史に基づき生物の体系化を目指す生物体系学であった。体系学者たちは「科学的な生物分類とは何か」「限られたデータから過去を推定するうえで妥当な推論とは何か」といった問題と対峙し、ポパー哲学を指標としながら理論を発展させてきた。
ポパー援用の背景には常に体系学者間の論争があった。本論は大きく2つの論争を中心に話が進む。1つは生物体系学内の3学派「進化分類学・数量表形学・分岐学」間で交わされた、生物の分類法を巡る論争。もう1つは、主に分岐学内で交わされた系統推定論を巡る論争である。前者ではポパーの反証可能性基準に、後者では「験証度の理論」に関心が集まった。
反証主義は演繹的推論を科学の合理性の基礎におく哲学であるが、その薫陶を受けた分岐学の研究フィールドは、推論に不確実性が伴い、仮説とデータとの演繹的関係が保障されない歴史復元科学の世界であった。このギャップの中で援用されるポパー哲学は、分岐学者たちの問題意識の変遷に沿って、従来の仮説演繹主義から、確率的推論を包括する理論へと解釈が拡げられていく。後年ポパーが反証主義の補填として測度化した験証度の理論は、統計的概念である尤度に基づいて定式化された。験証度理論の科学哲学内部でのインパクトは、初期反証理論に比べ限られたものであったが、系統推定における推論の哲学的基盤に問題意識をもっていた体系学者たちによって詳細に検討されることになる。本論ではこれら科学的実践の中のポパーという観点から反証主義を再考し、ポパー自身の理論から導かれる、仮説演繹主義を延長した、より包括的な反証主義解釈を提示する。
本論では、クオリアという一人称的なものとして閉じていると思われている存在は、「気づき」という心的機能を媒介にすることで三人称的に動物全体に対して探求可能であることを示す。クオリアは経験の現象的な側面として私たちにぬぐいがたく立ち表れるものである。しかし、この存在は私秘的なメタフィジクスとして、科学的に理解し探求することが難しい、意識の諸問題のなかでも最も厄介な存在の一つとされている。しかし認知科学においてよく知られた事例が与える示唆は、クオリアの三人称的探求の糸口になる。
議論は以下のように進める。まず、第1章で、伝統的に考えられてきたクオリアを概観し、変化盲を利用したデネットによる論証を通してそれが不整合なものであること、そしてそこには「気づき」という新たなファクターが関わってくることを確認する。第2章では、この「気づき」とクオリアの関係を経験的な事例を通して考察することで、「気づき」の有無の判断によってクオリアの有無も三人称的に判断できることを導く。第3章で、この三人称的アプローチが有益な探求になりうること、それは人間のクオリア論を動物全体にまで拡張可能であり、それが妥当なものであることを検証する。本論の結論として、クオリアは確かにその現象的側面において私秘性を保ち続けるが、その有無については三人称的、すなわち生態学的アプローチによって科学的に接近可能なものであることを結論する。
科学は進歩している。現代でこのことを疑っていると述べたならば、奇異な目を向けられること請け合いである。しかし次のような問いを含めて考えるとどうであろうか。「科学は進歩しているとして、どのような進歩性をもつのだろうか」「科学は合理的に進歩するものなのだろうか、それとも非合理的な進歩性をもつものと捉えるべきなのだろうか」 これらの問いにすぐさま答えることは難しいであろう。だが着目点はある。無視できない事柄として、科学者共同体が歴史的に見解の一致や不一致を繰り返してきたことを認めれば、合理的進歩性の問いは次のように問いなおすことができる。たとえば、科学者共同体の見解の不一致が一致に至ることや、あいも変わらず見解の不一致が続くことは、合理的なものとして説明できるのであろうか。また、その際の進歩性はどのようなものなのであろうか。これらの問いに、科学の変化の合理性の網状モデルと比較主義にもとづく進歩性を主張したラウダン(Laudan. L)と、科学の変化の合理性の修正階層モデルと構造実在論にもとづく進歩性を主張したウォラル(Worrall. J)のそれぞれの合理的進歩モデルを比較して一つの回答を与えたい。
本研究は具体的には、両者の主張に対して哲学的に予想される困難を指摘しておき、ケーススタディでそれらの困難を回避できているか、あるいはそもそも困難たりえないと強く擁護できるかを精査することでなされた。
最終的な結論は、ラウダンがモデル化した合理的進歩性を擁護するものになっている。すなわち、科学的知識を生み出してきた科学の変化の有り様は、網状モデルにもとづいた合理性モデルで正当化され、比較主義のもと漸進的で非累積的な進歩性の性質をもつものであると論じた。
本論では分析言明/総合言明という伝統的な二分法をめぐるカルナップとクワインの論争(カルナップ=クワイン論争)を、カルナップの「解明」概念を用いて再定式化することを試みた。「解明」とは日常の曖昧な概念(被解明項)を明確に定義された厳密な概念(解明項)によって置き換え、その論理的分析によって元の概念が持つ意味を明確にしようとする試みである。本論ではまず、カルナップ=クワイン論争についてそれぞれの側を擁護する見解を取り上げ、そのいずれもが十分な分析を与えていないことを指摘する。その上で、カルナップによる分析(L-真)/総合という区別が「解明」の試みの一環として理解すべきであることを示す。こうしてカルナップ=クワイン論争の争点は、分析(L-真)/総合という解明項に対する被解明項の妥当性をめぐる問題へと帰着されることが結論付けられる。
本稿では、我々がシミュレーション世界に生きている確率について定式化した、Nick Bostromのシミュレーション論法について批判的に考察する。シミュレーション論法とは、我々はコンピュータ・シミュレーション世界のなかにいるか、シミュレーション世界を作ることのできるような文明は誕生しないか、あるいは、シミュレーション世界を創ることができるほどの文明があったとしてもシミュレーション世界を作ろうとしないかのどれか一つが正しく、その確率は経験的な知識により推論できるという論法である。
本稿では、はじめに、シミュレーション論法について調べるために、その考えの基となった原則、Self-Sampling Assumption(SSA)を説明し、それが妥当であることを見ていく。その後、シミュレーション論法を説明し、批判的な検証を行う。もし、シミュレーション論法のモデルが現実を適切に表していたのであればその論法は正しいだろう。しかし、そのモデルは普遍的には成り立たない。そのため、シミュレーション論法はある限定的な状況のみで正当化されると結論する。
USEPAが2004年から公開するウェブアプリケーションであるCADDISは、米国国内における意思決定支援を念頭に置いた、水系における環境影響の因果性分析の方法論を提供するものである。CADDISはその方法論を有益かつ擁護可能なものに仕上げるために、科学哲学的因果論におけるプラグマティズムを概念的基盤として採用している。CADDISはプラグマティズムの採用を通じて、「完全に情報を与えられ、バイアスを持たないような専門家」の集団にとって、「現実世界で最も良い働きをするもの」、すなわちそのような集団にとって現実世界に関する最善の説明を導く仮説が真理であると主張する。
日本国内で実際にあった水系に関わる環境紛争事例(ダム排砂事例)を考察した結果、CADDISが採用しているプラグマティックな考え方が暗に含まれていることがわかり、そしてCADDISがアブダクションを用いた推論と同一視する順応的管理モデルと同様の形式で問題処理が行われていたことがわかった。ダム排砂事例においては、魚類の減少を引き起こす科学的な主張の1つとして議論の俎上に載せることが困難であるものの、実際に被害が生じていると考えられるヨコエビの大量発生の問題や、排砂と漁業被害の因果関係の是非に執着した論争の雰囲気が見て取られ、こうした問題はプラグマティズムのフレームに引きずられて生じている問題であるということが考えられた。順応的管理モデルの枠組みは、CADDISが主張する通りのそのアブダクションとの一致性から、こうした問題を問題として扱うことすらできておらず、予防原則の順応的な事後検証の枠組みの探求が、今後の環境影響評価において潜在的に求められていると考えられた。科学哲学の役目として、既存の科学的実践の擁護や、本論が行ったような枠組み的な問題点の指摘に留まらず、環境影響評価の実践において適切に機能する概念的基盤の構築及び再構築が求められていると考えられた。
社会科学の方法論には、定量的手法と定性的手法とがあり、両者の分裂が続く中で、統一的な研究指針の登場が待たれている。定量的手法は事例の数を増やすことで統計的に研究を行うものであり、定性的手法は少数事例を丹念に追跡することでそのメカニズムを明らかにしようとするものである。両者の対立は、因果的推論をどのようにして行うか、という点にひとつの大きな亀裂として現れるが、この因果的推論の対立を科学哲学的視点でもって整理することを試みる。まず反事実条件法に代表される論理的定式化と、Salmonの因果論に代表される機械的定式化を中心に科学哲学上の因果論の経緯を概観した後に、定量的手法が反事実条件法の、定性的手法がSalmonのマークメソッドの方法論をそれぞれ基礎的に内包していることを示す。その後、CartwrightによるSalmonのマークメソッドへの批判を定量的手法の研究者からの因果的メカニズムへの指摘と合わせて考察した上で、定性的研究者がその指摘に十分に対処できているか考察する。
モデルを計算機上で計算し、複雑な現象を解明しようとする計算機シミュレーションという科学の手法は、「第三の方法(third mode)」と位置づけられるような新しい手法である。現在では、自然科学分野に限らず、経済分野のような社会科学の分野でも利用され、今後もその重要性がますます高まるだろうと考えられる。
このような新しい手法の認識論の中でも、フレデリック・サップの議論は注目に値する。彼の議論は、科学者の日常行為を考慮し、なおかつ理論に関する彼の意味論解釈の議論を含んだ包括的なものとなっている。
本稿では、サップの意味論解釈や、気候シミュレーションの認識論に関する概念を解説した後、それに対する不備について指摘を行った。その中でも特に、彼の認識論の中で欠けている計算機に起因する「計算機アーティファクト」と呼ぶ存在を計算機における乱数を例に指摘し、この存在によって、彼の認識論がそのままでは成立しないことを指摘、計算機アーティファクトを考慮した上で、彼の認識論の改善を目指した。
「実在論対非実在論」の構図において、 IBE をめぐる中心的立場が好かれ悪しかれ、あたかも科学的実在論のみに在るかのように議論が進められているのが 科学哲学の現状である。しかしながら、本論では「更なる実在論」という観点から、あくまで科学的実在論を逸脱しないことを念頭に置く。と同時に、非実在論が探求する「正しさ」をも「更なる実在論」として摂取する試みによって従来の IBE を精錬する可能性の糸口を見つけ出していく。これが本論前二章の目標である。
これに後続の二章では、「実在論対非実在論」の構図と同程度に IBE の射程に入れるべき「説明と確証」におけるベイズ主義との係わりを論じる。ともすると、「説明」と「確証」はそれぞれ個別に考察されてきたきらいがある。しかしながら、本論では「説明」を主体視した「説明と確証」が共存する可能性について、「更なる実在論」を視野に入れて進めていく。
本論文は、社会的に高まってきた情報機器による監視(データ監視)について、カナダの社会学者ディヴィッド・ライアンの監視社会論を基に、我が国におけるデータ監視と、データ監視の問題点について論じていく。
データ監視には、”監視の分散化”や”情報伝達の容易さ”等の様々な特徴が考えられるが、ライアンは、その中でもとりわけ注目するべき点は、収集した個人情報から再び個人を再構成する”データ・ダブル”にあると論じた。第一章では、本論文の基盤となるライアンのデータ監視論と”データ・ダブル”の概念について論を進める。
第二章では第一章で述べた”データ・ダブル”の概念を基に、住民基本台帳ネットワークシステムや、Amazon.comにおける個人情報収集の手法など、実際に日本で起こっているデータ監視の事例を持ち出し、それらの事例から、ライアンが危惧したようなデータ・ダブルが実際に社会で起こりつつある問題であり、どのような問題点を孕んでいるのかという事について考察を行っていく。
続く第三章では、データ・ダブルの持つ問題点として、データ・ダブルを利用する事そのものは悪い事ではなく、有益となる場合も考えられるために、データ・ダブルの構造そのものを否定する事は難しい事、また、一度被監視者から収集された個人情報が、監視者の手の内でどのように扱われているかがブラックボックス状態になってしまっており、監視者と被監視者の著しいパワーバランスの崩壊がその原因であると主張する。その上で、データ・ダブルの問題の根源は、人間の人格の尊厳への侵害であると考え、それらの問題を是正する為には、被監視者がデータ・ダブルのサイクルへと働きかけることが出来るような仕組みを作ることが必要だとして、”透明性の確保”および”拡張された人格権による人格の保護”が必要であると結論付ける。
ベイズ主義は確率の数学理論を「主観説」の立場から解釈することを応用して、我々の思考様式を説明する理論である。確率の数値を、ある仮説(理論)への人物の「信念の度合」として解釈することにより、ベイズ主義は定量的に仮説(理論)の真偽を捉えることが可能になった。この立場ではある仮説(理論)に対する個人主観的な信念の度合の増減によって、それらの「確証」「反証」を捉える。真か偽かの二分法のみによらない点が、論理学的な議論との大きな差異であり、またベイズ主義の利点でもあるのだ。
しかしながら、科学者集団による科学の営みを説明する際、ベイズ主義は重大な問題に直面する。ベイズ主義の根本である「ベイズの定理」に基づけば、古い証拠は新たな仮説(理論)の確証には役立たない。これはGlymourによって提起された「古い証拠」問題と呼ばれる。
本稿では、ベイズ主義の基本的な事柄を概説した後、「古い証拠」問題に提出された従来の回答法の不備を指摘しつつ、近年Eells, Fitelsonらによって提案された新概念を用いての回答法を示す。それらをさらに洗練する過程において、従来のベイズ主義の方法論自体の不十分な点を指摘し、修正を施された新たなベイズ主義の方法論を提案する結論に至る。私は特に従来は曖昧なままであった、ベイズ主義者が確証を考える際によって立つ「背景知識」の明確な定義と、その構成法に注目してベイズ主義の改善を目指した。
背景知識の明確化、そして共有化が科学の営みを説明する際に必要なものであるとし、これにより「古い証拠」問題が解消される。そして改善されたベイズ主義は従来と比較してより我々の思考様式、ひいては科学の営みに肉迫した理論体系となり得る、という事が本稿の最終的な主張である。
知的財産権は研究開発や産業を活性化させるものであり、製薬ビジネスなどでは特に重要な位置を占めている。しかし、TRIPS条約に基づく知的財産制度では、世界の食料自給と公衆衛生に著しい悪影響を及ぼす危険があり、また、知的財産権による知識の私有化が過度に進むと、様々な研究開発を阻害する事にもなる。こういった弊害を回避するために、ソフトウェアの分野ではオープンソース・ライセンスが広く使われている。そして、このオープンソース・ライセンスをバイオテクノロジーの分野でも活用する試みが始まっている。今発表では、バイオテクノロジー分野でのオープンソースが持つ様々な利点や、社会的影響、そして今後解決すべき課題などについて考察する。
20世紀後半に現れた科学研究の形態であるビッグサイエンスにおいて、複合的な社会的要因の相互作用を分析し、説明することは困難である。しかし、その公共性から社会的説明が要請されており、科学論はそれに応えるべきであると考える。そこで、1970年代以降の新しい科学論において論争的な社会構成論とその周辺議論を、ビッグサイエンスの分析と説明に適用する可能性を検証する。
1章においては、社会的な構成の概念とその議論の在処を確認し、実際の適用として先行研究を考察する。1970年代に科学社会学、知識社会学から科学的知識の社会構成主義について議論が生まれ、その分野横断的な広がりは現在の科学技術社会論へと展開している。ピカリングとギャリソンの実験装置の科学論では、合理主義と相対主義の対立を巡る両者の相違を考察する。人類学的アプローチでは、ラトゥールの観察の手法とトラウィークの新規分野への展開を考察する。
第2章においては、前章で考察した先行研究の批判的検証を行い、そこから政策課題への適用について議論を進める。ピカリングの議論にある科学的知識の正当性についての認識論的争点はギャリソンでは回避されており、そこに実験室研究(laboratory science)という手法の有効性を確認する。ラトゥールの認知的主体についての争点を解決するため、人類学的アプローチを政策上の課題へ適用する可能性を検証し、その例証としてペストル、クリッジのアーカイブズへの取り組みと、そのためのオーラルヒストリーの手法に注目する。
結論として、科学論において、科学研究の社会的要因を分析し説明するためには実験室科学の人類学的アプローチが有効であり、その政策課題への展開が今後期待できる。しかし適用に際しては、相対主義を回避するため最適化を探求するべきである。その意味で、今後も社会構成主義についてさらなる検証が必要であると考える。