研究室の概要 <続き>

・・・というのも、科学に関する知識論は、いまや科学に関心をもつ人たちだけの高度な知的愉しみ(純粋な知的欲求の満足)に留まらず、ある種の社会的な判断に対して不可欠な(しかし現実には欠けている)要因になりつつあると思われるからです。

 たとえば健康や環境のリスクに関して、80年代にはリスクのアセスメントとマネジメントの分離が言われましたが、今日では逆にその融合の必要性が訴えられています。この転換の背景にはもちろん、科学的知識から一義的に社会的判断は導けない、という今日的な了解、あるいは科学的知識への信頼のゆらぎといった事情があります。けれども、もしここで、「科学的知識はある部分で不確かなので、これを社会的、民主的な議論で補う必要がある」とだけ唱えて、これだけで何か実のあることを訴えているように考えるなら、それはいささか短絡的に過ぎるでしょう。もし社会的議論が、科学的知識の上にその限界を補う何かを築くことができる(あるいは築く必要がある)とするならば、得られた科学的知識がそもそも「知識」として、手続き上どのような種類の知識であり、競合する知識や主張があるときに、これらを見較べる上でどんな基準があるか、といったことに、ある程度見通しが立たなければならないはずです。

 しかしこの見通しは、ストレートに科学者から提供されるとは考えにくいものです。科学的知識の生産は、確かに科学者にしかできないことであり、生産された知識が科学者の「常識」の中にある一定の手続きを経ているかどうかという評価も、科学者が通常行うことです。しかし、科学者はふつう、それぞれが当然と見なす手続きの「中」で仕事をしていると考えられるので、これを相対化して見る見方をあまりしていないと思われます(できるとしても、あまり熱心ではない)。けれども科学的知識を一つの知識として受け止めて、その知識との複雑な融合的知識生産を社会が担う必要が出てきているとするならば、社会は科学的知識を一定の手続き内部ではなく、少しでも広い知識の比較領域(正に知識論の領域)の中で評価ができることが望ましいに違いありません。

 こうした領域の創出に、科学哲学が少なからず貢献できるのではないかと私たちは考えています。もちろん、この創出作業は容易ではありません。伝統的な科学哲学の重要な議論を踏まえつつ、これと今日的な科学問題との接点を見出し、議論の再整理を行っていくわけですから、かなり手間の掛かることではあります。が、すでに世界の若手科学哲学者は、同じような狙いをもって活発に動き始めていますし、科学哲学が本来、経験科学と接点を持って進めるべき分野だとするならば、こうした作業は多かれ少なかれ、科学哲学の「醍醐味」と理解すべきでしょう。

 私たちの研究室は、まだこの方向に梶を切ってそれほど時間が経ちませんが、日々その面白さを感じており、共通の関心をもつ内外の科学者、科学哲学者と研究の連携もとり始めています。今後、社会的にも大事な意味をもつと思われる、こうした分野(これも科学コミュニケーションの一分野と言えます)の開拓に携わる人が増えることを強く願います。

 なお、私たちの研究室では、伝統的な科学哲学の諸問題(物理哲学を含む)に専ら関心がある学生もいますし、今後も歓迎します。基礎的な科学哲学の問題に取り組みたいと考える人が研究できる場は、残念ながら日本では非常に限られています。わたしたちの書庫(科学史と共通)には、基礎研究に欠かせない科学哲学関係の貴重な資料が豊富に揃えられていますし(電子ジャーナルも非常に充実しています)、関心のある仲間がいつも研究室にいます。科学哲学を本格的に研究したい人にとって、たいへん恵まれた環境だと言えます。一方で、上記の「社会的活動」を開拓しつつ、基礎研究を行う人たちも大切にする。この研究室を、そうした場にしたいと考えています。