2013年度合宿討論から

『放射能問題に立ち向かう哲学』(一ノ瀬著)をめぐる
 討論(第9章) 

神田あかり(M1)/松王・補記

 本書9章においては、放射線被曝リスクを企業の借金になぞらえた「借金モデル」が提示され、低線量被曝リスクを相対化する試みがなされている。身の回りにはリスクが溢れているが、リスクには度合いがあり、「どれくらい」のリスクなのかを問うことが、リスクを論じるうえで本質的である。こうした基本認識の上に、「低線量被曝問題は、低線量被曝リスク回避に伴う対抗リスクを含め、他のリスクと比較しながら冷静に対処すべきだ」というのが筆者の主張である。この主張そのものには大いに同意できるが、合宿討論では、主張を支える個々の議論に関して、以下のような二つの点が問題として指摘された。

 一つは、筆者が、被曝線量の評価の「一例」として、「年間一◯ミリシーベルトの被曝を受けたときのがん死に至る率は◯・◯五パーセントである」という具体的な数値を挙げている箇所についてである(「4 危険性の比較」後半部分)。この箇所で、筆者はまず、0.05パーセントという数字の「不確実性」について論じ、その流れで「いろいろ多角的な仕方でリスクの意義を理解していかなければならない」と述べている。そうすると、ここでの「多角」性に関する筆者の主張は、一口に被爆リスクと言ってもリスクモデルによってその評価が変わりうるので、様々なモデルによる評価の数値を勘案すべきだ、ということだと読める。
 しかしその直後で筆者は、同じ「多角」性について、「そうした多角的な仕方の、有力な一つは、他のリスクとの比較による相対化である」とも述べている。こちらの「多角」性は、リスクの値がモデルによって変わるという意味での多角性ではなく、0.05パーセントという数値(がん死リスク)を一つのリスクとして固定した上で、そのリスクの大きさを他の様々なリスクとの比較において相対的に評価する(評価せよ)、という意味での「多角」性である(本節のタイトル「危険性の比較」からすれば、こちらの多角性に関する主張が、筆者の本旨であろう)。
 このように、9章の(あるいは本書全体の)キーワードの一つと思われる「多角」性の記述に曖昧さが見られ、筆者の議論の焦点がどこにあるのかが、やや分かりづらくなってしまっている。

 もう一つ討論でなされた指摘は、「5 強制負債と計画借金」におけるモデルの考え方についての指摘である。筆者は「原発事故による放射線被曝」を強制負債に例え、これを手がかりとして事故後の対応を考えようとする。まず気になるのが、比喩のもとになる「強制負債」がどのような負債なのか、明確な説明がないことである。強制的に降りかかる負債であれば、通常、それは避けようがない負債だと思われるが、筆者は、強制負債に相当する原発放射線被曝を「避ける」リスクに言及している。この点で、まず比喩関係をどれほど厳密にとればいいのか迷うことになる。
 より問題だと思われるのは、「強制負債」と「計画借金」のうち、原発の放射線被曝問題が「強制負債」をモデルとして、適切に捉えられるかのように述べられている点である。強制負債には、どこか不可抗力のニュアンスがある。けれども筆者は一方で「今回の放射線被曝という強制負債は、私たち国民にもまたなにがしかの責任がある」とも述べており、責任が何らかの予見を前提するということからすれば、今回の被爆は、これまで原発を建設したり維持したりする中で暗に織り込み済みであった、とも捉えられることになる。そうすると、この被爆は、強制負債というよりむしろ「計画借金」に分類すべきということになり、モデルに齟齬が生じることになる。
 被爆を負債や借金になぞらえようという捉え方はたいへん興味深いが、この比喩に一層の説得力を持たせるには、対応関係をより精緻化し、被爆リスクをより広いリスク論の文脈で捉えることが必要だと思われる。

[神田、松王・記]

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