2013年度合宿討論から

『放射能問題に立ち向かう哲学』(一ノ瀬著)をめぐる
 討論(第1章) 

新納美美(D3)

 第1章では東日本大震災以降、解決されていない福島原発事故問題について現象を概観し、問題とすべきことが整理されている。著者は、震災被害について、目に見えるか見えないかの基準で分類し、直接目に見えない被害である放射性物質拡散の恐怖について着目している。その上で、放射性物質に対する恐怖心が、晩発性の発がんやがん死に対する不安であることを指摘し、それが実体性を持つものなのか否かを客観的に評価しようとしている。生命維持に対する被害の深刻さを量る指標として個体死をとりあげ、避難行動によって救われるであろう生命の最大値よりも、放射線による被害からの避難行動によってもたらされる現実的な死の方が上回ることを指摘した。さらに、放射線被曝が発がんに至るメカニズムを提示して、放射線被曝ががん死と等値ではないことと、被曝とがん死の因果性を証明することの困難性も指摘している。

 この章における問題提起は、一貫して冒頭で分類の基準とした“目に見える・見えない”の文脈で整理されている。一般に目に見えない脅威は人を過剰に恐れさせるため、ここで取りあげられている目に見えないものの象徴である放射線が、被害の実体性の無さにもかかわらず恐れられることが直観的に納得しやすく、読み手の共感が得やすいものと言える。また、著者の専門から言えば、因果性の説明が困難であることへの踏み込んだ議論がみられなかったのが少々残念ではあるものの、“説明できない”ということ自体“可視化できない”ということであり、目に見えないものが不安を煽るという文脈からみれば、この章の目的に充分かなった記述だと言えるだろう。

 第2章では、放射線や原発問題に対する人々の態度の根底にある複数の要因について考察し、それらがどのようにして政府・電力会社の責任を追及する社会全体の風潮を生み出したのかを述べている。スロヴィックの説を根拠に、高線量被曝による深刻な被害をもたらした過去の放射線事故の“恐ろしさ”と、今回の原発事故で起こっている低線量被曝が“どの程度の実害があるのか未知”であることによって、人々はより高いリスクイメージを形成していると指摘した。それに加え、原発事故をめぐる人々の心情・心理についても述べている。被災者はじめ広く一般の国民が、原発の危険性を知りながらも安全性優位の認識を抱き恩恵を受け続けてきた過去の経過を指摘し、その楽観的予測と現在直面している現実との齟齬から生じる複数の否定的反応について“不の感覚”という言葉で総括して述べている。著者によれば、不の感覚は、必要のない被曝を受けてしまったという“不条理感”や“不快感”、恐ろしいことが起きるかもしれないという“不安感”、事故後の情報開示の経過で生じた“不信感”で構成されているという。さらに著者は、原発事故による放射能汚染が生じた土地やその土地に由来する生産物を忌避する人々と、汚染区域に残してきた生活を捨てることのできない人々との間に道徳的問題を含んだ“不条理”を生じさせているとも指摘した。これは単なる個人の認識を超えて社会関係の中で生じる“不の感覚”である。このように著者は、“不の感覚”というKey wordを用いて、原発に対する否定的認識の連鎖から、社会現象である“道徳的ディレンマの問題”や“低線量被曝のリスクに関する客観的評価に対する負の価値づけ”が生じるメカニズムを因果的に説明しようとしている。

 ここでの議論も、前章に引き続き、直感的に共感を得やすい説明と論調であると言えるが、一つ一つの心情的背景を持った事象の関連性を述べる段階で、やや違和感を覚える。個人の不の感覚各々については、社会心理学など実証系の知見も傍証として用いて議論をしているにもかかわらず、モデル構築の際にはそれが抜け落ち、やや著者の独断に走ったかのように見えてしまうからである。この点は、被災国ならではの様々な社会的実証データを残すことのできる研究活動の芽を育てることにつながりにくいという点で、非常に残念である。情緒的なものは、確かに共感を得やすく短時間で連鎖的な波及効果をもたらすが、移ろいやすいという点で科学的議論と接点を持ちにくく、客観性に欠く記述になりがちと言える。そのようなリスクを回避し、誤解を生まないように議論を展開するには、新たな切り口として、社会資本という観点から精査し直すのも一案であろう。それは著者の認識に、社会資本という文脈が存在していると考えられるからである。

 第2章の前半で著者は“何も落ち度がないと思われるのに突然被害にあった”という被災者の感覚と“犯罪被害者の心理”を重ね合わせ、両者が類比的だと指摘している。犯罪被害者は、自らの持てる資産や生存に関わる資本を突然奪われる体験をする。これは著者の分類で言えば目に見える喪失体験である。同時に、犯罪被害者は、安全であると信じて疑わなかった社会関係に強い不信感を抱き、ごく正常なそれまでの社会関係を築くことが困難になる。これは、当事者からすれば社会関係資本の喪失とも言え、目に見えない資本の喪失ということができる。このように“社会資本”という概念を用いて放射能問題に話を戻せば、原発に頼ったエネルギー政策に乗じて生産と消費を繰り返して豊かさを築いてきたという過去の事実は社会資本の形成と密接に関連しており、事故によってそれが危機に立たされるという見方が出来る。また、著者が述べる“不の感覚”は社会関係資本の崩壊と関連する。事故が起きた土地の住民が場を共有することによって当事者意識を共有するだけでなく、メディアを通じて遠隔地の人々とも当事者意識を共有することによって、その連鎖的な認知が社会的風潮を生み、社会関係資本減少のリスクが高まるという見方も出来るのではないだろうか。道徳的ディレンマの問題も、その文脈の中で語ることのできる接点があるように思う。

 全体の文脈から、著者は中立性と合理性を保ちながら議論を進めるうえで、自然科学の知見に重きを置くことを選択したかのように読み取れる。しかし、それを述べる著者自身も、共同体の一員である。著者の論考の影響力を考えれば、自らが社会構造をどのように捉えているのかを社会科学的な知見を援用して論じることで、社会全体にとって援助的論考となり、より広い分野の読者に支持され、幅広い議論を触発できるのではないかと思う。

[新納・記]

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