スピンアイス --- アイスルールを持つ磁性体 ---

統計物理学研究室


1. はじめに…

スピンアイスはフラストレーションが原因となってアイスルールが成り立つ磁性体です。これまで当研究室ではスピングラスに代表されるフラストレート系とアイスルールが成り立つ水素結合型誘電体(KDP, 氷)の研究を行ってきました。スピンアイスはその両方の物性のより深い理解をもたらすと期待されます。このページでは、スピンアイスにおけるフラストレーションとアイスルール、そして、私達が現在取り組んでいる問題を簡単に紹介します。

2. 氷

スピンアイスの紹介をする前に普通の氷 H2Oとアイスルールを紹介します。。氷は温度と圧力によって Ih相、Ic相、II相、III相、…、XI相と様々な相を取ることが知られています。ここでは常圧六方晶氷の Ih相とXI相に注目します。 Ih相は常誘電相、XI相は強誘電相です。

216x199(3353bytes) 氷 H2O のアイスルール

常圧氷の結晶中では1つの水分子が他の4つの水分子と水分子の持つ水素を媒介として結合し、結晶全体で水素結合3次元のネットワークを形成しています。水素結合上では陽子 H+ が2つの酸素イオン O2- のどちらかに偏っています。氷の結晶中でも水分子 H2O の形が保たれていることから、氷の結晶中で次の2つの条件が成り立っています。

  1. 1つの水素結合上には必ず1つの陽子 H+ が存在する。
  2. 1つの酸素イオン O2- に近接する陽子 H+ は必ず2つ。

これが、氷のアイスルールです。氷結晶ではアイスルールが成り立つために残留エントロピーと陽子配位の凍結の2つの性質が現れます。

残留エントロピー

常圧六方晶氷では「熱力学第三法則」に反して絶対零度において有限のエントロピーが現れることが知られています。この残留エントロピーはアイスルールを満たす状態(アイスルール状態と呼ぶ)が巨視的な数だけ存在することが原因です。 L.Pauling はアイスルール状態の数を概算し、陽子1個あたりの残留エントロピーを S0 = (1/2)ln(3/2) = 0.203 と見積もりました。実験値はこれに近い値となっています。アイスルール状態で陽子が無秩序に配位しているのが Ih相です。

陽子配位の凍結

アイスルール状態が巨視的な数だけあるのなら、そのような状態間の遷移が頻繁に起こるように感じられるかもしれません。けれども、実際にはアイスルール状態間の遷移はほとんど起こりません。理由は、あるアイスルール状態から別のアイスルール状態へ遷移する過程で一度に複数の陽子を並べ替えなければならないからです。このように一つのアイスルール状態に系が落ち着いてしまい、通常考えられる時間の範囲では陽子配位が変化しなくなる状況を「陽子配位が凍結している」と言います。

長い間、無秩序な Ih相から、強誘電性秩序を持つ XI相への相転移が予想されてきましたが、XI相はなかなか発見されませんでした。 KOH を少量(数ppm)添加した氷では相転移が確認されていますが、純粋な氷での相転移は確認されていません(図1)。 XI 相が純粋な氷で見つかっていないのは、陽子配位の凍結によって緩和時間(相転移の時間スケール)が異常に長くなっているためだと考えられています。しかし、KOH の添加がどのようにして相転移を引き起こすのかは現在もよく分かっていません。

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図1 : 常圧六方晶氷の相図
右に行くほど高温となる。 XI相は KOH を添加した氷でしか発見されていない。

3. スピンアイス

氷とアイスルールの紹介が終わったところで本題のスピンアイスを紹介します。近年、パイロクロア型酸化物の Ho2Ti2O7 は低温におけるスピン配位がアイスルールに従っていることが発見され「スピンアイス」と呼ばれるようになりました。

パイロクロア型酸化物

スピンアイスとして知られる物質としてはパイロクロア型酸化物の Dy2Ti2O7 や Ho2Ti2O7 等が挙げられます。パイロクロア型酸化物とは組成式 A2B2O7 を持ち、 A と B がそれぞれ正四面体が3次元的に頂点を共有してできるパイロクロア格子(図2)を形成している物質です。 A2B2O7 において、A は希土類原子であり、B は Ti, Sn, Zr, Pb 等の4価金属で、これらの多くの組み合わせが考えられます。パイロクロア型酸化物はその結晶の構造から次の節で紹介するフラストレーションの効果を持つとこが知られています。スピンアイスとなるパイロクロア型酸化物には次の特徴があります。

  1. A が磁性原子でスピンを持つ。
  2. 強い結晶場の影響でスピンが四面体の中心方向を向き、1つの四面体に対して「in」「out」の2状態を取る。
  3. 隣り合うスピン間の相互作用は強磁性的で「in - out」の組がエネルギー最低である。
スピンというのは非常に小さな磁石で、相互作用するスピン全体の振る舞いで系の磁性が決まります。

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図2 : パイロクロア格子
パイロクロア格子の立方体単位胞(左図)、青い球が磁性原子を表している。各磁性原子のスピンは四面体の中心方向を向き、1つの四面体に対して「in」と「out」の2状態を取る(右図)。
フラストレーション

スピンアイスではフラストレーションの結果としてアイスルールが現れます。フラストレーションというのは系の全ての相互作用のエネルギーを同時には得することができない状況のことです。ここでは Ising スピン系における例を示します。 Ising スピンは上向き↑、下向き↓の2状態を取り、強磁性相互作用ではスピンが同じ向き「↑↑」の組でエネルギーを得し、反対向き「↑↓」でエネルギーを損します。反強磁性相互作用ではその逆です。例として互いに反強磁性相互作用する3つの Ising スピンのループを考えます(図3)。最初に2つのスピンは図のようにエネルギーを得するように並べることができます。すると、残った1つのスピンは上向き↑でも下向き↓でも2つの相互作用エネルギーを同時に得するように並べることができなくなります。これがフラストレーションです。他には、強磁性と反強磁性が混ざっている場合などにフラストレーションが生じます。

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図3 : フラストレーション
互いに反強磁性相互作用する3つの Ising スピンにおけるフラストレーション。エネルギーが低い相互作用は○、高い相互作用は×で示した。
スピンアイスにおけるアイスルール

パイロクロア格子を構成する1個の四面体を取り出して、そのスピン間の相互作用エネルギーを最低にすることを考えます。この四面体でもフラストレーションが生じます。つまり隣り合うスピンの組を全て「in - out」にする事ができない構造になっています。そのため、2つのスピンが「in」残り2つが「out」という「2-in, 2-out」のスピン配位が四面体の基底状態になります。 6つある最近接相互作用のうち2つが「in - in」「out - out」となるフラストレーションが生じています。氷 H2O 結晶中の水素結合をスピンに見立てると、氷の結晶でも「2-in, 2-out」が成り立っていることが分かります(図4)。そのためスピンアイスの結晶全体で「2-in, 2-out」が成り立っている状態をアイスルール状態と呼んでいます。

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図4 : 2つのアイスルール
左が氷のアイスルール。右がスピンアイスのアイスルールで青丸が磁性原子。水素結合をスピンに置き換えれば両者のアイスルールは同じである。

氷 H2O におけるアイスルールとは違い、スピンアイスにおけるアイスルールは温度が下がるにつれてアイスルールが厳密に成り立つようになります。氷 H2O におけるアイスルールは全ての温度で成り立っています。両者のアイスルールにはこのような違いがありますが、スピンアイスにおいても氷と類似した現象が報告されています。比熱測定による残留エントロピーが Pauling のエントロピーに近い値を示すことや、温度を下げるとスピン配位の凍結が起こることが報告されています。また、スピンアイスは磁性体であるため外部から磁場をかけて、系の状態を変えることができます。磁場をかけたときの系の振る舞いにもフラストレーションとアイスルールの効果が現れることが知られています。

双極子相互作用

スピン間にはアイスルールの原因となる最近接相互作用だけではなく、長距離力の双極子相互作用も働いています。双極子相互作用によってアイスルール状態の縮退が解け、長距離秩序を持つ真の基底状態が現れると考えられています。この真の基底状態はスピンアイスの低温相(氷 XI 相に相当)として現れるはずです。しかしながらスピンアイス物質でもこのような低温相は発見されていません。これは、氷XI相の場合と同様に、スピン配位の凍結によって系の緩和時間が異常に長くなっているためだと考えられています。スピン配位の凍結の影響を取り除いた Monte Carlo シミュレーションでは、複数のスピンを同時に反転させることによって 0.18 K で相転移が起こるとの報告がされています。スピンアイスではこの双極子双極子相互作用の効果が大きく、最近接相互作用だけでは説明できない実験結果が報告されています。

4. むすび

私達の行っているクラスター変分法を用いたスピンアイスの研究を最後に簡単に紹介します。

クラスター変分法(CVM)

磁性体を理論的に扱うときに分子場近似という近似計算がよく用いられます。通常、分子場近似ではスピン間の相関を考えないので、フラストレーションやアイスルールを取り扱うことができません。そこで、我々はクラスター変分法(CVM)という統計物理学の系統的近似法を用いて計算を行っています。 CVMでは、スピン間の相関を階層的に取り込むことによって、系のフラストレーションとアイスルールを扱うことが可能です。 CVMを用いて四面体内の相関までを考慮した計算を行いました。

計算例

CVMで得られたエントロピーの温度依存と中性子散乱パターンを図5に示します。残留エントロピーは Pauling と同じ値を示し、これまでの分子場近似では扱えなかったアイスルールを考慮した結果が得られています。中性子散乱パターンは実験結果とは若干異なるパターンとなりましたが、双極子相互作用の効果を取り込めば実験結果を上手く再現することができると考えています。現在、双極子相互作用がアイスルール状態に及ぼす影響の解明に向け、双極子相互作用も考慮したCVMの計算を進めているところです。

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図5 : CVMの計算例
左がエントロピーの温度依存。太線がCVMで細線が分子場近似。 CVMではアイスルールを取り扱うことができ、残留エントロピーが現れる。右が(hhl)面での中性子散乱パターンの計算結果。

アイスルールを持つ磁性体であるスピンアイスを紹介してきました。私達の研究室では今回紹介したCVMの他に転送行列法、Monte Carlo シミュレーションなど理論的手法によってスピンアイスの研究を行っています。アイスルールの下での双極子相互作用の効果の解明と磁場中での振る舞いの解明を目指し研究を進めています。このページでは磁場中での振る舞いについては余り触れませんでしたが、機会があれば紹介したいと思います。


問い合わせは mailto:shun1@statphys.sci.hokudai.ac.jp まで。